YMO AGE

折角なので、過去に書いた文章を記録に残していくことにしました。以下は1994年11月に社内報に掲載された文章を再録したものです。

YMO AGE】
 60年代にビートルズが登場し、その後のシーンに多大な影響を与えたように、80年代に登場したYMOは我々の世代、及びその後のシーンを語る上で重要なキーを握っている。再生して暫く経った今、自分なりにその存在を再検証したい衝動に駆られ、今回、筆をとることにした。

 70年代後半、クラフトワークやディーボが現れ、その兆候が見え始めたいわゆる「テクノポップ」という音楽形態。タイミング良く登場したYMOオリエンタリズムと、世界的にも注目されつつあった「東京」という文化都市、それらを背景に、テクノロジーを駆使した音楽という、当時になかったタイプのユニットが誕生した。

 結成以前、細野晴臣の「泰安洋行」は欧米のミュージシャンの間で密かなブームとなっていた。彼独特のチャンプルーミュージックは当時カテゴライズしにくいものであり、今となってはワールドミュージックの先駆けであった。その新鮮さにローリング・ストーンズトッド・ラングレンも注目した。彼は世界進出を企む。WhiteでもBlackでもない、Yelloという名前をひっさげて、器楽という世界共通の言語で、アメリカにヨーロッパに殴り込みをかけた。

 欧米の評判を逆輸入する形で日本でもブームが起こる。その頃中学生だった私は、大変なカルチャーショックを受けた。この感覚は60年代に青春時代を過ごした方が、ビートルズに対して抱いた感覚に近いものがあると思う。当然、細野晴臣高橋幸宏もその洗礼を受けているわけだが、それを別の形で我々の前に提示したのである。

 こうして超メジャーな存在となったYMOは、自らの存在のアンチテーゼとして後世に残る名作を発表する。「BGM」である。発表当時、評価は随分と分かれたように記憶しているが、私個人としては「BGM」と「テクノデリック」は、その手法と精神性に強く惹かれた。しかし、更にそうしたファンを裏切るようにYMOは再度メジャー路線を歩むわけだが・・・。

 メディアを利用するように音楽業界を駆け抜けていったYMO。その存在は余りにも大きい。ただ残念なのは散会後の3人の音楽である。私個人としては、高橋の「甘さ」、坂本のインテリぶったワールドミュージック志向は余り好めない。むしろ散会してから改めて細野の音楽性の高さを再確認する形となった。再生のコンサートの時、必要以上に坂本がクローズアップされていたことに多少なりとも反感を抱いていたのは私だけではないと思う。

 「テクノドン」の音楽性は、どちらかといえば「BGM」の頃に近いと言われているが、概ね評価はよろしくない。いくらアンビエント、ハウスという形態を再構築して「自分こそオリジナルだ」と気を吐いてみたところで、彼等が最先端でいた時代は終わったのである。

 やはりYMOは80年代の産物だったのではないか。ひとつの文化に昇華し、その後テクノロジー一色のシーンを作り上げ、音楽をBGM化してしまった。実は我々音響メーカーにとっては、彼等の功罪は大きい。

 現在、また生楽器を使った音楽が見直されているが、90年代には特に目立った影響力を有したミュージシャンは出ていない。ハウスやミクスチャーはどうもマンチェスターの二の舞になりそうだし、日本に至ってはドラマの主題歌のみクローズアップされるまで堕落してしまった。それは何故か?

 90年代は総括期なのである。今回のCDチェンジャーの発売の背景にはCDの保有枚数が増加している事実があるとのこと。CDによる旧譜の再発ラッシュは凄まじく、今の若者は新しいもの、古いもの、分け隔てなく聞きあさっている。ちょっと前には入手困難だったレコードも重箱の隅をつつくように再発され、平然とVirginやHMVの棚に並んでいる。世紀末とはよくいったもので、90年代はまさにロック、ポップスの総括期に入ってしまったのである。

 ジョン・レノンフランク・ザッパなど大物が次々と亡くなっていく中、21世紀のシーンはどの方向にいくのか。鍵を握っているには我々の世代なのかもしれない。