#本文は1995年8月号に掲載されたものです。
「向うを行くのは お春じゃないか」で始まる「春らんまん」という曲が好きです。「日本のロック」の先駆者として伝説化されているはっぴいえんど。確かにその存在意義は大きかったのかもしれません。しかし、それを余りにも過大評価するのもどうか。「日本のロック」などという概念は本当に必要だったのでしょうか。単に、その後のメンバーがメジャーになったことで、スノッブが必要以上にこのバンドを伝説化したがっているだけなのでは?多少穿った見方ですが、こうした見解を述べるのには、実は訳があるのです。
毎年、お正月のFM番組で恒例となっている「新春放談」。これは、大滝詠一、山下達郎、萩原健太の三人が、とりとめもなくフィル・スペクターや、自分たちの全然出てこないアルバム等について語る番組です。この場で大滝詠一は自らの打ち立てた「日本のロック」について否定的な発言をしています。
「日本語のロックなどという論争に巻き込まれるんじゃなかった。」
事の発端は「東京ビートルズ」。最近、氏の尽力によって見事復刻されましたが、彼等はGSブームが起こる前に突然変異的に発生した、日本のロックの「先駆け」的存在です。折からのサイケデリック・ムーブメントに乗り、その後、歌謡曲と化したGSは、今や「日本のガレージサウンド」として思い切り再評価されています。しかしながらその根底にある言葉の問題。これを、大変な試行錯誤と、松本隆の才能によって乗り越えたバンドが恐らくはっぴいえんどなのでしょう。
しかし、乗り越える必要があったのか。そこまでこだわって確立したものは、一体何だったのか。
はっぴいえんどのメンバーの中で「日本語」にこだわったのは、言うまでもなく松本隆でした。大滝詠一は唱法でその困難をクリアし、細野晴臣はそこにグルーヴを加えました。そのグルーヴの追求がチャンプルーであり、それに飽きて「人間」の見えない音楽をやろうとしたのがYMOなのです。
確かにその後キャロルやサザンオールスターズによって「日本のロック」は可能性を広げられました。はっぴいえんどが開拓者であることは間違いありません。でも大滝詠一はそれを否定しました。
スチャダラパーを筆頭に、ECDや高木完といった人達が「日本のラップ」をやり始めています。近田春夫やランキンタクシーのラップを最初に聞いた時は若干引いてしまいましたが、スチャダラパーは良かった。彼等は元ネタのデ・ラ・ソウルのアルバムにも参加してしまうくらいですから、ただ者ではありません。しかし、新春放談で萩原健太は日本のラップに懐疑的でした。今、若者の間でヒップホップがブームであり、DJ向きのCDプレーヤーも発売されました。元々、ストリート・パフォーマンスであったものが一種の音楽ジャンルになり、今やラップは世界共通の音楽形態となっています。ターンテーブルを回し、リズムトラックを作り、踊って喋ればラップですから、楽器ができなくてもセンスだけで音楽が成り立ってしまう。「DA・YO・NE」はつまらないけど売れました。十年以上かかって、ようやく日本でもラップが一般化したのです。
何が言いたいのかというと、日本のロックとはすなわち日本語の洋楽であり、日本独自のものではない、ということです。はっぴいえんどはすなわち日本のバッファロー・スプリングフィールドであり、スチャダラパーは日本のデ・ラ・ソウルなのです。
「江差追分」をテクノにした細野晴臣や、「蘇州夜曲」をハウスにしたサンディーのアプローチが本当は正しいのかもしれない。日本はアジアであって、ヨーロッパでもアメリカでもないのです。白人や黒人を真似てアジア人を軽視する傾向が日本にはありますが、我々は黄色人種です。日本に根付いた音楽を世界に向けて発信する、それが日本のミュージシャンの役割なのではないでしょうか。はっぴいえんどは外来文化を日本語に置き換えたに過ぎない。ただ、それが初めてのケースだっただけに注目されたのです。
坂本龍一はニューヨークで活動している時に、「海外にいると、どうしても日本的なものを求められる」とぼやいていたそうです。坂本はそこで沖縄に頼るしかなかった。ニューエストモデルはアイヌに頼った。同じ日本でも世界に発信できるのはやはりそうした独自の文化圏です。
では我々の誇れる文化とは何なのでしょう。結論はこれからも考え続けていきたいと思います。
#以降は2021年8月19日に追記した文章です。
四半世紀以上前に書いた「はっぴいえんど崇拝否定論」という文章が何故か結構読まれており、若気の至りで非常に恥ずかしい文章となっているため、部分的に書き直したりしていました。その上、自分ははっぴいえんど自体は大好きなので、当時の内容の訂正も含めて少し方向修正をしようと考え、本文を書いています。
文章を書いたのが95年、その元となった山下達郎と大滝詠一の新春放談が94年です。今ではYouTubeで聞くことができますが、当時は友人にもらったカセットテープで聴いて、大滝詠一の「24年を棒に振った」という発言にとても驚いたのが文章を書いたきっかけでした。自らのスタート地点を否定するなんて、どういったことなんだろう、となかなか理解できなかった。
しかし、大滝詠一からしてみれば、日本のロック、いやそもそもロック自体、左程自分の人生に関係なかった。ポップスは好きでしたが、ロックは当時一生懸命聴いて理解しようとしていた対象だったわけです。
加えて、日本語についても、日本はそもそもスコットランド民謡を「蛍の光」として歌ってきた国であり、明治維新以降、あるいは仏教伝来以降脈々と存在する海外からの文化を日本語に置き換えていく流れの一パターンとしてはっぴいえんどがあっただけだ、という考え方なので、何も日本のロックの創始者として祭り上げられることは大滝詠一にとって名誉でも何でもなかったわけです。
細野晴臣にしてもそうでした。日本語で歌うことに最後まで抵抗したのは細野晴臣だった、という話もある程で、ご自身はバッファロー・スプリングフィールドのような音楽ができれば歌詞は英語でもよかった。むしろグローバルに活躍するには英語の方が向いている、という考え方でした。そこを説き伏せたのが松本隆だった。
すなわち「日本語」にこだわったのは松本隆であり、かつその手法がフォークでもなくGSでもなく、風景を感じさせる「歌詞」だった。そこには言葉の「意味」とともに言葉の持つ「音」も意識されていた。そしてその歌詞が先にあって、そこに革新的な譜割で曲をつけていったソングライターが大滝詠一であり細野晴臣だった。その楽曲は詞も曲も最高に洒落ていたわけです。
日本独自の文化、などという大それたものではなくて、洋楽を日本語に置き換えていく一連の取り組みのひとつでしかない、という面でははっぴいえんどは神格化されるのは本望ではない。ただし、歌詞と楽曲の組み合わせのクオリティが高かったので、自分もその魅力には大いに惹かれました。そしてその音楽の魅力はやはり『風街ろまん』に尽きると思うんです。
日本独自の音楽を探していくこと自体、恐らく意味がない。全ては外来に起源があって、その辺りを大滝詠一は分母分子論やポップス普動説で折に触れて説明しています。きっと昨今のシティポップのブームについても、ご存命であれば全体の流れの中で位置付けていたでしょう。そんな風に最近は考えています。