ディシプリン

 キング・クリムゾンを好きになったのは、ポッパーズMTVで「太陽と戦慄パート2」のライブを見てからだ。この頃のクリムゾンは余り評価されていないようだが、デヴィッド・シルヴィアンが後にロバート・フリップと行動を共にする際、自分は後期クリムゾンしか聞いたことがない、と言い切っていたことからも明らかである。ポップスとしての完成度が高いのだ。

 かくいう私も「ディシプリン」という曲が大好きだ。この繰り返される旋律と数学的な絡み合い、緻密な建築物のような装いに完全にやられた。そもそもプログレなるジャンルが余り好きではなかった私が、こうした分野に興味を示したことに自分でも驚いたが、恐らく要素がまったく異なるのだろう。

 フランク・ザッパマイルス・デイヴィス等に興味が行くことの延長線上にキング・クリムゾンもある、ということで納得して、この時期の魅力について語ろう。ディシプリンというのは訓練という意味で、ロバート・フリップがとにかくギターを練習し、訓練の果てに生み出すものを音楽のコンセプトとして掲げた時期の代物が、「ディシプリン」「ビート」「スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー」の3部作である。

 過去、ナビのCM曲として「フレーム・バイ・フレーム」の一節を提案し、結果的にドラムンベースにされてしまったことがあったが、私はこの時期の楽曲にある数学性に強く惹かれていた。上記の印象的フレーズも1音だけ減らして旋律を絡ませていく手法に魅せられていた。これがデータの緻密性に似ていることを表現したかったのである。

 ドラムンベースにされてしまった経緯はある映画音楽に例えられたが、基本は同曲の前半部の疾走感を採用してしまったことが原因だろう。これは確かにドラムンベースかもしれないが、当時言いたかったのはずらしによる関係性構築であり、アルゴリズムやアプリケーション・プログラムを表現したかったのではないかと今では考えている。軽率だったものだ。時間もなかったので仕方ないが、もう少し拘ればよかった。

 プログレの遠大な世界観にやられている人は、一体何に魅力を感じているのか私には理解できない。粘着性のほうが強いように思えるのだが、それが器楽による陶酔であるなら理解は可能だ。テクノの反復性やジャズの即興性、そこまではいいとして組曲化することでの演劇性は申し訳ないが否定させてもらう。音楽でやる必要がないと思われるからだ。

 陶酔は音楽だけで得られればそれで良いし、それ以上の世界観や詞世界は不要だ。長渕剛も不要である。

 ヴルーム以降のキング・クリムゾンは残念ながら未聴だが、この時期の音楽性を発展させてハードにしたものだと聞く。いいことだと思う。昨年、一斉に紙ジャケ再発された一連の諸作の内、ディシプリン期3作をまとめ買いしたが、ひとつ気になるのは聞いていた頃の気分が陰鬱としていたことだ。何故か元気が出ないのは閉塞感が漂っているからか、それともそれがプログレの罠なのか、自分には分からないが、必要だったことは確かで後悔はしていない。

 蛇足だが、その後CANの再発にも手を出した。ジャーマン系もなかなか美しいが、ホルガー・シューカイのペルシアン・ラヴにスネークマンショーで出会ってしまったので仕方ない。バッファロー・ドーターもジャーマン系だし。初期ジェネシスピーター・ハミルに行くかどうかは、現在迷っている最中である。