清志郎の死について

RCサクセションを余り聴かないので特段思い入れはないが、やっぱり驚いた。「笑っていいとも」なんかに出演した時に、トークをしないでひたすらギターで歌い続けるアナーキーさにほれぼれしたものだ。

58歳という年齢にも何とも言えないものを感じる。例えば会社でも定年を待たずに亡くなってしまう人が稀にいるが、余生を過ごすことなく現役のまま亡くなるのは非常に切ない。

この連休は家族サービスの合間を縫ってドキュメンタリーもののDVDを大分見た。ビートルズのアンソロジーから始まって細野晴臣のトリビュート・コンサート、ムーンライダーズの『マニアの受難』、そしてHASYMONHKの番組。ビートルズの映像からは当然ジョン・レノンジョージ・ハリスンの不在を感じずにはいられない。思えば、ムーンライダーズYMOの人たちも還暦周辺な訳で、決して清志郎と年齢が離れている訳ではない。それが怖い。

YMOの再結成には歳をとることの素敵さを学ばしてもらっているが、ある日突然それがなくなることは想像し難いものだ。清志郎のように予兆があるケースは例えばかしぶち哲郎なんかには当てはまりそうで、非常に恐ろしい。自分も歳をとってきているので当然なんだが、どこか「死ぬはずがない」と思ってしまうのは悲しい性か。フランク・ザッパのように死を予期して自らの総決算を記録として残していく活動をするケースはまだ良いが、唐突にいなくなってしまうのは恐怖だ。精神的な支柱を失うような感情に駆られてしまうだろう。

誰もが死に向けて突っ走っている訳で、それまでの日常をいかに懸命に過ごすか、そこで何かを残すのではなく日々を充実したものとしていかにひとつひとつ積み上げていくか。そんなことが大事なんだろうと思う。

今後、死を悼むアーティストによって何らかの祭典が催されたり、追悼盤が商売にされたりと嫌なイベントが続きそうなのが気にかかるが、本当に考えなければいけないのは自分たちの日常でいかに人に対していたわりをもって接することができるかだろう。その契機となるのが「有限であること」への意識。これがあれば懸命になれますよね。それはとても悲しいことだが、仕方のないことでもある。そんなことを考えました。歳をとるのは段々と穏やかになっていくという意味でとてもいいことだと思うんだけど、同時にこうしたことと隣り合わせなんだよなあ。単純だけどそう思い知らされました。

ご冥福をお祈りいたします。