小沢健二『我ら、時』第二盤

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「音楽のことしか分からないで音楽を語るのはつまらない」と誰かが言っていました。音楽は表現であって、何か伝えたいことや感じたこと(この感じたことは音楽的であってもいいんですが)があってはじめて成り立つものだからです。すべての表現はそう。音楽から触発されて音楽が産まれることは勿論ありますが、そこにも何らかの感情が媒介されている訳です。

小沢健二の場合、海外を旅して得た相対化の思考があらためて今自分のドメスティックな活動の再定義に繋がっているじゃないかな。年齢を重ねるとある部分は非常に純粋になっていくことがある。普通、40歳を過ぎると過去の自分の経験に依って立つことが多くなるんですが、それ以外に純粋に相手や周囲を受け入れていく考え方も産まれて来るんですね。その上で怒る時は怒る。実は昨日嫌なことがあって遂に激怒してしまったんですが、そうした中でもどこかに冷静な視点が僅かながら残っている。その上で感情を前に出すんですね。この辺のバランス感覚が自然に備わるのが40歳を越えた人のふるまいだと思います。

リアレンジと一歩引いた視線。相対化と環境の変化への時間軸的な俯瞰。色々なものが相俟って過去の楽曲を再定義していく。そこには昔の友達も合流して半分ノスタルジー、半分on goingの空間が生み出される。スチャダラパーが参加した『今夜はブギーバック』を聴きながらそんなことを考えました。この曲自体は実は今ひとつ好きになれないんですが、何といっても過去に打ち立てた遺跡のようになっている現在では爽やかに響いてきます。

メディアに晒されることで失うものはきっと多い。最大のものは統制でしょう。一度取り込んで考えた暗黙知が取り巻く環境と渦巻く思惑でノイズに攪乱されてしまう。様々な誤解と思い込み。これは表現者がぶち当たるひとつの壁なんだと思います。そこを経験して一度引きこもった人は、次の機会には警戒もするし慎重に行動する。小沢健二YMOの再始動にはそんなことを感じます。