『シッカショ節』や「ひふみよ」という日本語をどう捉えればいいんでしょうか。
先に書いたように海外に出ることで母国を相対化する振る舞いは誰もがやることで、早くは坂本龍一が『NEO GEO』の頃に沖縄に接近したことで証明しています。それまでは日本のロック論争なんかもあったし80年代に入っても結局は欧米からの影響下を免れなかった。そもそも戦後自体がアメリカによって政治機構を弱体化される仕組みを構築したことで日本は宿命として政治力の弱さを背負ったため、今回の原発事故でもその脆弱さを露呈したと言われています。
でも90年代はどうかというと、小沢健二やピチカート・ファイヴに代表される渋谷系アーティストによる欧米文化の血肉化と世界に発信できるだけのクオリティの確保によって、国内のリスナーは洋楽離れが進んでJ-POPの攻勢が始まる。確かCDのセールスも98年あたりがピークですよね。そこを過ぎて今な訳ですが、ここへきて何故『シッカショ節』か、というとノスタルジーかな、という気がします。大切な母国、というより子供の頃の盆踊りの記憶みたいなもの。小沢健二の場合、時代とリンクした幼児性がそのまま持続している気がします。今やマンガだってアニメだってゲームだって大人が楽しんでる時代ですし、だからこそのオタク文化ですので、それが今の文化輸出に繋がっている。ここにあるのはきっと宗教の不在なんでしょうね。無宗教って凄い国だよなあ。
『LIFE』以降、急速に小沢健二が弾けたのは何だったんでしょうか。その理由は深くは知らないんですが、ある意味自信であり一時的な躁状態だったんだろうと思います。でもやっぱり歌詞、日本語の乗せ方がうまいなあ、と当時から思っていました。『流星ビバップ』での「もう一回」という合いの手は最高ですが、この一言が『シッカショ節』にも出てきます。大塚愛も真似していましたがこのちょっとした意外性がもたらす影響はとても大きいと思います。90年代をもって初めてはっぴいえんど以来の試みが自然に発せられるようになった。こいつは目出たい、等とひとりで喜んでいました。
小沢健二は今国内ツアーの真っ最中ですが、これは新作もいきそうですね。ライブを踏まえて録音した作品はムーンライダーズの例を見るまでもなく明らかに勢いがあっていい作品になりますから実現したら楽しみです。その際「語り」の部分をどうするか。今回は3枚組ですから収録可能だったし、書籍と一緒の仕様なので伝えたいことは充分伝えられたと思うんですが、普通にオリジナル作品を出すとするとどうか。って出さないかもしれないんで何とも言えませんが、一応期待することにしたいと思います。