Toddの憂鬱

#本文は1995年11月号に掲載されたものです。

 マシュー・スウィートの「100%ファン」は最高だ。「ガールフレンド」には到底及ばないと専らの評判だが、そんなことはない。「Sick Of Myself」のリフは無敵だ。同時代にこんなにPOPな音楽が楽しめるとは、私は幸せ者だ。

 マシュー・スウィートレニー・クラヴィッツ等と共に、過去の良質な音楽を再構築するアーティストとして語られることが多い。同様の手法と同質の毒を有するアーティストがトッド・ラングレンだと思う。

 しかし、そのトッドが前作「ノー・ワールド・オーダー」からインタラクティブ・ミュージックという難解な分野に取り組み始めた。トッド・ラングレンは本当にその手法に満足しているのか。この疑問を過去の作品群から考察してみたい。

 ナッズのギタリストとしてデビューした後、トッドはまずプロデューサーとしての活動を始めている。この一風変わったスタートが後の作品群でのマルチぶりを予告している。とにかくほぼすべての楽器を一人でこなして、歌も歌い、プロデュースもする。音楽を作る者としては、まさに理想的な形だろう。自分のやりたいことをすべて自分で具現化できるのだから。そのワンマンぶりはプロデュース業にも現れており、トッドのプロデュースしたアルバムは、いささかオーバー・プロデュースになりがちだ。

 しかし、そうしたワンマンから生み出される音楽はPOP、すべてPOPだ。名盤とうたわれる「サムシング/エニシング」や「ハーミッツ・オブ・ミンクホロウ」等、眩暈がするほど美しい。

 POPは毒でもある。トッドのもう一つの側面として、その実験性が語られる。「ア・ウィザード・ア・トゥルー・スター」や「ア・カペラ」等での捻くれたアプローチは、作品群の水面下で一貫して行われている。

 しかし、実験性や雑多性を思わせるものも、その根底にはPOPな流れが確実に存在する。その融合の結晶が傑作「Todd」である。

 彼の実験性はしかし、「ニアリー・ヒューマン」「セカンド・ウィンド」といった作品での原点回帰、すなわちバンドサウンドへの回帰によって行き詰まった感がある。それは、すべてを一人でこなす多重録音という自らが打ち立てたスタイルへのアンチテーゼであったわけだが、その方向性は果たしていかがなものか。既にあらゆることをやり尽くしてしまって、今ではヒップホップ等のミュージシャンに先端を奪われてしまったトッドは、「与える側」と「聞く側」の双方の壁を打ち破ろうとする大技に打って出た。「インタラクティブ」である。

 「ノー・ワールド・オーダー」は旋律の細かい断片の寄せ集めで成り立っており、パソコンの所有者に限定して、その断片の組み合わせを聞き手に委ねることができる。トッドは自らの曲を我々に作り変えて楽しむよう迫っているのである。

 「今後の僕はインタラクティブ・ミュージックを作るアーティストと思ってくれていい。」トッドのこの発言に私はトッドの憂鬱を感じてしまう。

 トッドの実験性とはすなわちアイディアだ。「音楽の構造は本来数学的なものだ。」と発言するトッド・ラングレンは、これまで様々な形でメロディーとコードの実験を繰り返し、そしてPOPであり続けてきた。現在でもその努力は怠っていないだろうが、最新作「ジ・インディヴィジュアリスト」での音楽にはそのPOPな部分が弱い。毒が弱いのである。

 コンセプトが先行した感のあるインタラクティブ・ミュージックを今後もトッドが続けていくのだとしたら、その底力はいつか衰退の一途を辿ることになるだろう。古いものの焼き直しでもいいじゃないか。マシュー・スウィートジェリーフィッシュのポピュラリティはやはり不変のものだ。その王道をあえて歩かず、新しいものに果敢にチャレンジする姿勢には拍手を送りたいが、やはり楽曲のクオリティを落としてはいけない。弟子を自認する高野寛ですら懐疑的になってしまうのだから。

 POPの大御所、トッド・ラングレンは今後どうなっていくのだろう。是非もう一発、名作を残して消えていって欲しい。(ストーンズはその点で偉大だ。)トッドにはムーヴのロイ・ウッドみたいにはなって欲しくないのである。