四半世紀以上前に書いた「はっぴいえんど崇拝否定論」という文章が何故か結構読まれており、若気の至りで非常に恥ずかしい文章となっているため、部分的に書き直したりしていました。その上、自分ははっぴいえんど自体は大好きなので、当時の内容の訂正も含めて少し方向修正をしようと考え、本文を書いています。
文章を書いたのが95年、その元となった山下達郎と大滝詠一の新春放談が94年です。今ではYouTubeで聞くことができますが、当時は友人にもらったカセットテープで聴いて、大滝詠一の「24年を棒に振った」という発言にとても驚いたのが文章を書いたきっかけでした。自らのスタート地点を否定するなんて、どういったことなんだろう、となかなか理解できなかった。
しかし、大滝詠一からしてみれば、日本のロック、いやそもそもロック自体、左程自分の人生に関係なかった。ポップスは好きでしたが、ロックは当時一生懸命聴いて理解しようとしていた対象だったわけです。
加えて、日本語についても、日本はそもそもスコットランド民謡を「蛍の光」として歌ってきた国であり、明治維新以降、あるいは仏教伝来以降脈々と存在する海外からの文化を日本語に置き換えていく流れの一パターンとしてはっぴいえんどがあっただけだ、という考え方なので、何も日本のロックの創始者として祭り上げられることは大滝詠一にとって名誉でも何でもなかったわけです。
細野晴臣にしてもそうでした。日本語で歌うことに最後まで抵抗したのは細野晴臣だった、という話もある程で、ご自身はバッファロー・スプリングフィールドのような音楽ができれば歌詞は英語でもよかった。むしろグローバルに活躍するには英語の方が向いている、という考え方でした。そこを説き伏せたのが松本隆だった。
すなわち「日本語」にこだわったのは松本隆であり、かつその手法がフォークでもなくGSでもなく、風景を感じさせる「歌詞」だった。そこには言葉の「意味」とともに言葉の持つ「音」も意識されていた。そしてその歌詞が先にあって、そこに革新的な譜割で曲をつけていったソングライターが大滝詠一であり細野晴臣だった。その楽曲は詞も曲も最高に洒落ていたわけです。
日本独自の文化、などという大それたものではなくて、洋楽を日本語に置き換えていく一連の取り組みのひとつでしかない、という面でははっぴいえんどは神格化されるのは本望ではない。ただし、歌詞と楽曲の組み合わせのクオリティが高かったので、自分もその魅力には大いに惹かれました。そしてその音楽の魅力はやはり『風街ろまん』に尽きると思うんです。
日本独自の音楽を探していくこと自体、恐らく意味がない。全ては外来に起源があって、その辺りを大滝詠一は分母分子論やポップス普動説で折に触れて説明しています。きっと昨今のシティポップのブームについても、ご存命であれば全体の流れの中で位置付けていたでしょう。そんな風に最近は考えています。